サメと泳ぐを観て
何で、あんなに人間らしい役が似合うのだろう。
純粋で、真っ直ぐだったからこそ、歪んでしまうガイと
最後まで抜け目のなかったバディ
そして、ついに愛想を尽かしてしまって、ドーンはどこかに、ステラのところに?行ってしまったのかな。
愛か、仕事か。名声に地位。ガイが二人に詰め寄られる場面は私まで耳を塞ぎたくなった。ガイがそのまま自分自身を撃ってしまうのでは、とさえ思った。
それくらい、追い詰められるシーンだった。
初めにガイのことを認めてくれたのはドーンだ。
ドーンとガイは、ハリウッドでなければ、普通に出会っていればもっと良いパートナーになれたんじゃないだろうか。いや、ハリウッドだからこそ出会えたのか。
あのドーンが、こんなに素敵な女性が自分のことを愛してくれている!そのことがどれだけガイの心の支えになったか。
同時にドーンも、仄暗い現実の中でガイに希望を見たんじゃないかな。
けれど、ガイの一番の「脚本家になる」という夢には敵わなかった。
圭くんがネクタイを締めるところ、ジャケットを脱ぐところ。あと袖を捲り上げるところ。双眼鏡を構えてしまうのは無意識だった。本能が見ろ、って言ってた。
1幕でどこまでも従順だったガイは、2幕が始まる頃にはすっかり染まっていた。髪型がそのよい例だと思う。
人は環境に左右される。周りの人付き合いもその一つだと思う。ガイにとって、バディに付いたことが良かったのか、悪かったのか… それは分からない。
けれど、ガイが欲しかったもの。あそこまで爆発して欲しかったもの、ドーンは、結局手に入らなかった。それはガイが決めたことだった。
物語の初めの方でバディが、脚本家になりたいガイに向かって「好きなことは仕事にできない」と断言する。
映画が好きで、自分の人生は映画と共にあるというガイ。楽しかったことは全て映画とリンクする。それくらい大好きなものに関わることができる!と大きな野心を胸にやってきたガイにぶつけるにはあまりにも酷すぎる。
けれど、たぶん。それはバディも味わってきた苦しみなのだろうと思う。
ところで、“サメと泳ぐ”=“SWIMMING WITH SHARKS”というのがとてもキュートだなと、入場列に並んでいるときにスタッフさんが着ているのを見かけて思った。Tシャツ白しか残ってなくて、黒いのあったら欲しかったなあ。
圭くんの声の出し方がやっぱり好きだった!お芝居の人なんだな〜って思った。普段、舞台でお芝居をされている人ってドラマとか映画だとその辺が違うから難しいって聞いたことがある。確か発声の仕方が違うんだよね、声が好きだな。圭くんがお芝居をしているときの声が好き。
今日のお芝居を観に来れてよかったな〜〜って思った。
照明がめちゃめちゃ綺麗で、切り替わる瞬間に空気がバチッと転換する感覚がした。
あとゼンマイおもちゃもそう。途切れた瞬間に物語が再び動き出す。面白いなーと思った。
ガイはあんなにもなよなよしくみえるけれど、決して自我が無いわけでも自己肯定力が低いわけでもないなと思っていて。じゃないと、ハリウッドまで夢を追いかけに来たりできないと思うし、修正の提案もできないと思う。半分やらされたところもあるけれど、ずっと、できる自分を信じてきた人なんだと思う。
ドーンと恋に落ちて、そのドーンを結果的に裏切ってしまって、認めてもらえたと思っていた仕事も奪われて、ぜんぶ無くなったガイはバディに激昂する。いつも怒らないような人が怒るときほど怖いものってないよね。
「サメちゃんを持って帰って、泳がせてくれたらいい」って、圭くんがブログに書いていた。
サメ、がなんだったのか。サメとはどういう意味で、何の例えなんだろう。
偽るのが苦手なガイが、段々自分を騙してうまく立ち回れるようになっていく様はどこか悲しい。ドーンの好きだったガイはもうほとんどいない。
最後の最後。あんな話をしたのに、奥さんは生きてるかのような終わり方。それを聞いたガイはもう怒らない。
ただ、ただゼンマイを巻くだけ。おもちゃは机から落ちる。誰も拾ったりしない。
とりとめなくて、まとまらないな。
娯楽を現実から逃避する為に使うのか、
現実に立ち向かう為に使うのか。
三度目に出てきてくれた圭くんがプクーッと口を膨らませてお辞儀してくれた。自然体でいいな〜〜と思った。お辞儀が深かった。お手振りもかわいかったし、野波さんが去り際に客席の方向に振り向いて挨拶するのがツボだったのか、圭くんもやってくれて、そういうところだぞ!って思った。